[高 山 城]

土岐川の流れと市街地を見下ろす要害の地

  

  



  



地名:高山城、点名:御屋敷、4等三角点、標高 180.78 m   .
基準点コード:TR4-5337-01-2501、5万分の1地形図名:美濃加茂
 
撮影:令和6年3月9日

 土岐川の流れと市街地を見下ろす要害の地、規模は小さな山城。かっては浄水施設があった。

 ・現地の案内版に記載された内容    土岐市指定史跡 高山城趾     高山城は鎌倉時代から戦国時    代にかけ土岐市北部の中心的存    在でした。     美濃源氏である土岐光行が浅    野館を構えた承久の乱の頃に土    岐氏の一族高山伊賀守秀頼が城    を創建したと言われています。     戦国時代には平井頼母が城主    となりました。高山城は織田信    長と武田信玄、勝頼との領土争    いの境界線上に位置し激しい戦    いが繰り広げられました。       高山城高山宿史跡保存会    土岐市指定史跡      高  山  城  跡                 昭和31年5月9日指定    立 地     高山城は土岐川を見下ろす標高183mの全山泥板岩の     三方断崖絶壁の好位置に立地し、中世の山城として理想     的な天然の要害に築かれています。    構 造     胸突くばかりの急坂を登ると木戸跡、城門跡を通り     出丸に出る。     出丸は二の丸に続き、ここに大井戸の跡があった。本丸は     二の丸より3m程高く、南の三の丸からの敵を防ぐ為に     高さ3mの櫓跡の土居があった。    歴 史     高山城は土岐氏の一族である高山伊賀守秀頼により浅野宿を     見下ろす高台に築いたのが始まりで、鎌倉から室町時代に     かけて美濃国の中枢を守る重要な役割を果たした城でした。     弘治2年(1566年)斉藤道三と義竜の戦いに義竜に     従い道三と戦い、高山伊賀守父子は戦死し、土岐高山氏     は終焉した。     その後、平井光行、頼母親子が高山城主となり、天正2年     (1574年)甲斐の武田勝頼による東美濃攻めがあり、激しい合戦によって     800名余の犠牲者が出た。                     (甲陽軍艦、美濃国諸旧記、信長公記)     慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際に高山城は西軍に組みしたため、東軍     妻木勢によって城下は焼かれ、高山城は落城したと言われている。     以後、高山城は幕府の直轄地となった。                            土岐市教育委員会      案内板記載の見取り図