[杣 山 城]

比高が高く防御性に優れた山城

  



  

  

  

  

  

  

  

  

  

   

地名:杣山、点名:杣山、3等三角点、標高 492.11 m   .
基準点コード:TR3-5336-51-6701、5万分の1地形図名:今庄
 
撮影:平成30年12月16日

 麓から本丸のあった山頂までの標高差は380m余り。中世の山城で登りごたえのある登山道が通じており、山頂からの眺 めは抜群である。山全体が「杣山城跡森林公園」となっており城跡は発掘調査も行われており、国指定史跡である。


(以下は南越前町ホームページより引用)
 杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。
日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城
が存在し、標高492メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています。
山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します。
杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部約170ヘクタールが、昭和9年と昭和54年に国史跡の指定を受けています。

 杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母
七条院の所領で、安貞2年(1228)8月上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山
庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました。
 山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父・衡が越後の三島郡瓜生村からこの地に移り築城したといわれています。以来、金
ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました。
 延元元年(1336)、新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました。『太平記』
によれば、延元2年(1337)正月11日、金ヶ崎城を救うため出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれていま
す。『得江頼員軍忠状』によれば、暦応元年(1341)6月25日夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高
経が在城しましたが、貞治6年(1367)7月、高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した
甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明6年(1474)正月日野川の合戦に敗れ落城しました。朝倉氏の時代には、そ
の家臣・河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元年(1573)、織田信長の北陸攻めにより廃城となりました。その後、天
正2年(1574)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。