[白 鳥 城]

富山市街、立山連峰の展望も一等

駐車場奥の石碑  道標

間伐材の遊歩道

 

空堀の本丸側は急な登り   

本丸跡の土盛り、点測点と三角点   反対側から

   ここから立山連峰が一望できる

城址の平面図

山名:白鳥城山、点名:越城山、一等三角点、標高 145.13m
基準点コード:TR1-5537-01-3301、5万分の1地形図名:富山
 
撮影:平成30年6月29日

 富山市の西、呉羽丘陵の最高峰にあって、富山市街地から立山連峰までを一望する絶好の 位置にある。寿永2年(1183年)源義仲の軍が陣を張ったという記録が最初で、豊臣秀吉の 軍が、富山城にある佐々成政を攻めたときに陣を敷いた城でもある。

 呉羽丘陵県定公園にある駐車場から遊歩道200m、5分で本丸跡に至る。一等三角点の傍らにある 天測点(経度、緯度の天文測量用の測標と機材を設置する台)は全国45ヶ所の内の一つ。


   (山頂の説明板に記載された文、原文は縦書き)
 
       白 鳥 城 跡
 
     呉羽丘陵の最高峰にあり、眼下に富山平野を
    一望できる
     寿永二年(一一八三年)に源義仲の武将今井
    四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録で
    ある。その後数々の古文献にこの城のことが見
    えるが、豊臣秀吉の陣が富山城の佐々成政を攻
    めたときに陣を構えたことがよく知られている。
     現在、秀吉本営の白鳥城の遺構はほとんど失
    われたが、昭和五十六年からの発掘調査によれ
    ば、本丸は空堀で囲まれ、周囲からはいくつか
    の土塁跡や敷石跡が発見されている。
     出土の遺物には、土師質土器の越前焼スルバ
    チ、中国製の染め付け碗などがある。分析の結
    果、十六世紀後半のもので、秀吉の時代と一致
    し、その多くが富山県外のものとされ、主とし
    て東海から移動してきた兵が携えてきたと考え
    られる。
     秀吉軍と佐々成政の伝承が富山に根強く語り
    継がれているのも、それだけ印象に残る出来事
    が多々あったからであろう。
              平成十一年  富山市