[ 岸 和 田 城 ]


天守閣最上階では結婚式の準備、マスコットが可愛い

  

  

  

  

  

  

  

地名:岸和田城、点名:岸和田、2等三角点、標高 13.63 m .
基準点コード:TR2-5135-52-5901、5万分の1地形図名:岸和田
 
撮影:令和5年5月21日

 三角点は天守閣の前にひろがる庭園の左手。白い漆喰の土塀付近の桜の木の下にあった。コンクリートの蓋(表に「二等三角 点」の文字)が置いてあり、本体はこの下にあるが重くて動かせない。和歌山城と同じパターンだ。
 天守閣の最上階では結婚式の準備中。席は20ほどで、こじんまりした挙式のようだ。城門の前には白いハトが準備され 係の人が参列者の世話をしている。地元の小母ちゃんも花嫁の姿を見ようと待っているが、なかなか現れず我々はその場を 離れた。
 アンケート回収箱やマンホールの蓋には城をイメージしたマスコットが描かれているが愛称は法被にに書かれた「岸」の文字 から「岸ちゃん」かな? 城内に体育館も設置されているようで、剣道の気合いが大きく響いていた。

   (以下はウキペデイア「岸和田城」より引用)      延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がお     り(『岸和田治氏軍忠状』)、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られる(応永7年9月28日     『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))。しかし、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかった。      平成時代の発掘調査によれば、15世紀後半に現在の岸和田城跡から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、16世     紀初頭頃に放棄されていた。      その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。     羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的     な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築さ     れている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却さ     れた。      岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」    (ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」     とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見の名所となり、大阪みどりの百選に選定されている。      日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。      2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定された。