[ 浜 松 城 ]


天守の窓から三角点、隣接して大河ドラマ館

  

  

   

  

  

地名:浜松城公園、点名:浜松、2等三角点、標高 42.17 m
基準点コード:TR2-5237-05-5701、5万分の1地形図名:浜松
 
撮影:令和5年4月8日

 2回の訪問で三角点を確認した。1回目は天守に登郭後、三角点を探したが、立ち入りできない石垣の上に あることを確認。
 2回目は、ひらめきで天守閣の窓から写真を撮れないかと考え、窓から覗くと予想通りの結果であった。1層目 の格子の向こうに、同じ高さの目線で三角点があり、最上階からも見下ろし確認できた。懸案が解決し気分も爽快 、手で触れることはできなかったが、満足であった。

   (以下はウキペデイア「浜松城」より引用)      浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏     支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された     部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたる。      徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の     形成を進めた。徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在の本     丸に向けて城域が拡張されたことが窺える。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣     や瓦葺建物を備えていなかったとされる。      慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣     色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改     修が進められた。      堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。以降、天守門が     浜松城の最高所に位置する建造物といえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったことが窺える。      明治6年(1873年)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三の丸、二の丸の宅地化が     進行した。天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、昭和25年(1950年)の浜松城公園開設に至る。