[要 害 山]

佐々木加地氏の加地城跡、「学びの山道」を登る

全景   登山口に赤い鳥居

藤戸神社の鳥居   長い石段を登ると…

2の鳥居があって…   藤戸神社社殿

学びの山道を行く…   急な登りになり…

陸橋、両側に堅堀   本丸への道

本丸跡   山頂と西方向、日本海まで遠望

三等三角点   水田が広がる南方向の景色


山名:要害山、点名:要害山、三等三角点、標高 105.66 m 
基準点コード:TR3-5639-73-5001、5万分の1地形図名:新発田
 
撮影:平成28年10月29日

 山城としての遺構は残っているが、石垣は無い。藤戸神社の 参道または、林道が登山口となる。滑りやすい200を超す石段を登り切ると立派な社殿が建ち並ぶ。 右手に「学びの山道」が伸びており、しばらくは水平道。後は尾根伝いの急登となり、やがて、平地 や陸橋、堅堀があらわれ、最後の急登で本丸跡に着く。本丸跡からは西から南方向の展望が良く、 越後平野の向こうに日本海まで見渡せる。登り約30分。
   案内看板の内容(原文は縦書き)

     加地城(佐々木加地氏本城)
   加地城は鎌倉時代初頭、越後守護兼加地荘地頭職、佐々木三郎盛綱により築城され以来室町時代
   初めに至るまで、越後守護代、伊予(愛媛)備前(岡山)守護職佐々木加地氏ほ本城として隆盛
   を誇りましたが、足利将軍家の一族、関東上杉氏の越後入封以来、衰微の一途をたどりました
   戦国時代上杉謙信の姉が加地春綱の室となり再び隆昌の途についた矢先、上杉謙信公の急死に遭
   遇、天正八年春一族五十公野氏の奇襲により落城その後再建、天正十五年(一五八七)九月七日
   (旧暦)上杉景勝の攻撃を受け遂に落城
   慶長二年(一五九七)上杉景勝の命により加地氏は断絶、加地氏は廃城となりました
      註
   1 諸国名を冠する加地氏、備前加地氏初め十九流
   2 領地を姓とする分流新発田氏竹俣氏等五十氏を超える
   3 大友稲荷社 加地城主三代加地實秀建立
   4 藤戸神社 岡山県倉敷市藤戸町の地名より
   5 順徳天皇の弟冷泉宮ョ仁親王妃加地實秀の子女
                   一般社団法人 新発田観光協会