[愛 宕 山]
燧ヶ城址、カタクリの群生地
山名:愛宕山、点名:燧ヶ城、4等三角点、標高 269.98 m 基準点コード:TR4-5336-51-2501、5万分の1地形図名:今庄 撮影:令和元年12月29日
(以下は現地案内板記載の内容) 燧 ヶ 城 址 この左手山頂には、平家物語や源平盛衰記などでよく知られている燧ヶ城址(海抜二百七十メートル)が ある。城址まで約二十分で登れ、途中にはブナ林がある。燧ヶ城址の下には鹿蒜川沿いに、木ノ芽峠 へ通じる北陸道と、山中峠への道筋、更に日野川と平行して栃ノ木峠へ通じる北国街道がいずれもこ の麓で交わる。すぐ近くの杣山城と敦賀金ヶ崎城とともに、この城は北陸の関門を制する重要な場所 であった。『源平盛衰記』によると、寿永二年(1183年)四月、平家は木曾義仲追討のため、平維盛の 率いる十万の大軍を北陸路へ差し向けた。義仲は越後の国府にいて、燧ヶ城には仁科太郎守弘や、平 泉寺長吏齋明威儀師を大将として立て籠もり、日野川 を堰き止めて周囲一帯を水浸しにして平家の大軍を迎 えた。しかし『北陸道第一の城郭なり』といわれた燧 ヶ城も齋明威儀師が平家に内通するに及んで、たちま ち陥落し、義仲軍は敗走した。その後五月倶利伽羅峠 の合戦に義仲は勝利し、七月には上洛した。 南北朝時代になると、再びこの城は攻防の戦場とな り、延元元年(1336年)には、今庄入道浄慶が足利方の 将として立てこもり、南朝方新田義貞軍に味方して挙 兵した杣山城の瓜生保軍と対抗、敦賀金ヶ崎との連携 を絶つ作戦に出た。 『太平記』では、新田義貞、脇屋義助らの行軍に際 (ここに下の図が入る) し、由良光氏の節義に感動した浄慶が金ヶ崎への路を 開いたというエピソードが記されている。 戦国時代の天正三年(1575年)には越前一向一揆の総 大将下間筑後法橋頼照が藤島超勝寺、荒川興行寺の一 揆と立て籠もり、信長軍と対戦したと伝えられている。 このようにこの燧ヶ城は数世紀にわたり戦略上の重 要な拠点として利用されてきた。なお現在残っている 土塁・石垣等は戦国時代のものである。 幾多の戦いの地、燧ヶ城址も現在は憩の広場として 又今庄の町並が一望できるハイキングコースとして町 民に親しまれている。 平 成 十 一 年 三 月 今 庄 町 教 育 委 員 会