[愛 宕 山]

燧ヶ城址、カタクリの群生地

登山口   観音堂=天童山円通寺

  

  

  

  

   

  

搦め手の堅堀   痩せた尾根

山名:愛宕山、点名:燧ヶ城、4等三角点、標高 269.98 m
基準点コード:TR4-5336-51-2501、5万分の1地形図名:今庄
 
撮影:令和元年12月29日

 12月にしては気持ちの良い天気、しかも雪も無い。JR今庄駅に駐車し、六所山、鍋倉山、藤倉山とまわって 愛宕山に来た。藤倉山を下りきると、こちら側は燧ケ城の搦め手で、陸橋のような狭い尾根、堅堀が続き本丸に到着。 広い山頂で今庄の町並みを見下ろし、まったりする。下りの途中にはブナ林があり、登山口周辺にはカタクリの 群生地が広がる。



   (以下は現地案内板記載の内容)

         燧   ヶ   城   址

     この左手山頂には、平家物語や源平盛衰記などでよく知られている燧ヶ城址(海抜二百七十メートル)が
    ある。城址まで約二十分で登れ、途中にはブナ林がある。燧ヶ城址の下には鹿蒜川沿いに、木ノ芽峠
    へ通じる北陸道と、山中峠への道筋、更に日野川と平行して栃ノ木峠へ通じる北国街道がいずれもこ
    の麓で交わる。すぐ近くの杣山城と敦賀金ヶ崎城とともに、この城は北陸の関門を制する重要な場所
    であった。『源平盛衰記』によると、寿永二年(1183年)四月、平家は木曾義仲追討のため、平維盛の
    率いる十万の大軍を北陸路へ差し向けた。義仲は越後の国府にいて、燧ヶ城には仁科太郎守弘や、平
    泉寺長吏齋明威儀師を大将として立て籠もり、日野川
    を堰き止めて周囲一帯を水浸しにして平家の大軍を迎
    えた。しかし『北陸道第一の城郭なり』といわれた燧
    ヶ城も齋明威儀師が平家に内通するに及んで、たちま
    ち陥落し、義仲軍は敗走した。その後五月倶利伽羅峠
    の合戦に義仲は勝利し、七月には上洛した。
     南北朝時代になると、再びこの城は攻防の戦場とな
    り、延元元年(1336年)には、今庄入道浄慶が足利方の
    将として立てこもり、南朝方新田義貞軍に味方して挙
    兵した杣山城の瓜生保軍と対抗、敦賀金ヶ崎との連携   
    を絶つ作戦に出た。
     『太平記』では、新田義貞、脇屋義助らの行軍に際     (ここに下の図が入る)
    し、由良光氏の節義に感動した浄慶が金ヶ崎への路を
    開いたというエピソードが記されている。
     戦国時代の天正三年(1575年)には越前一向一揆の総
    大将下間筑後法橋頼照が藤島超勝寺、荒川興行寺の一
    揆と立て籠もり、信長軍と対戦したと伝えられている。
     このようにこの燧ヶ城は数世紀にわたり戦略上の重
    要な拠点として利用されてきた。なお現在残っている
    土塁・石垣等は戦国時代のものである。
     幾多の戦いの地、燧ヶ城址も現在は憩の広場として
    又今庄の町並が一望できるハイキングコースとして町
    民に親しまれている。
            平 成 十 一 年 三 月     今 庄 町 教 育 委 員 会