瀬戸菅原
(せとすがわら)
神社
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かほく市 瀬戸町
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白山社他を合祀したが祈年祭、秋祭は各社で
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撮影日: |
平成25年3月8日 |
鎮座地: |
かほく市瀬戸町上段78の2 |
由緒書きには、戦国の天正12年、兵火にかかって焼失したが、寛永年間に前田家家臣で末森城を守備
した奥村永福がこれを再建したとある。佐々成正は、陣を張った坪井山から越中への敗走に
際し所構わず火を付けた。この神社もそのとばっちりをうけたようで、守備側だった前田家が再建したと
いう構図のようである。
旧拝殿の鬼瓦が保存されているが、台座には「経の巻万十巴雲付」「打出の小槌宝珠付」と刻まれており、
これは鬼瓦の型式のようである、初めて知った。
(以下は石川県神社庁ホームページより引用)
御祭神:伊邪那美命 大国主命 速秋津比古神 天満天神 少彦名命
由 緒:
当社の社伝及び神社明細帳によれば、往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し、延喜式内瀬戸比古神社と
云い、大海の庄12ケ村の総社として信仰され、歴朝、奉幣使が幣帛を奉って参詣されてきた、その氏子
崇敬者も多く、又神田も広かった。戦国の天正12年(1584)社殿や宝物は、兵火にかかって悉く焼
失したが、寛永年間(11624〜)に、前田利家の命をうけて奥村永福がこれを再建、しばらくして万
治2年(1659)には、天満天神と少彦名命を相殿にお祀りした。宝暦4年(1754)には、各村々
は神社を建立し、氏神を勧請してお祀りしたが天満天神の祭日には、たくさんの参詣人で賑わったので世
上では、天神社と流布されるほどであった。明治6年(1873)瀬戸比古神社を瀬戸菅原神社と改称し
た。明治40年(1907)10月5日、当社に白山社、大国社が合祀を届出されたが二社に於ては、祈
年祭並びに秋祭は、その後も斎行されている。明治41年4月8日神饌幣帛供進社に指定された。